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湿板に使う薬品

湿板写真とは

湿板写真は、1851年にイギリスのフレデリック・スコット・アーチャーによって発明され、日本には江戸幕末期に輸入されました。その当時に主流であったダゲレオタイプに比べて、湿板写真は感光材の感度も高く安価だったため広く普及しました。1880年代の乾板の登場までの約30年間、様々な偉人が湿板により撮影され、坂本龍馬や勝海舟、そして明治天皇などが湿板写真に撮影されています。またこの時代から商業写真や写真館も登場し始めたと言われています。

 

湿板写真はコロジオン湿板法とも呼ばれます。具体的なプロセスは、ガラスやアルミプレートなどの平らな支持体に薬品である塩化コロジオンを塗布した後、硝酸銀の溶液に数分間浸して感光性をもたせます。湿板(しっぱん)→「湿った板」が意味するように、塗布した薬品がプレート上で湿っている時のみ感光性を帯びているため、速やかに撮影し暗室で現像作業を行います(乾燥すると感光性が損なわれます)。一連の現像作業が完了すると、支持体のコロジオンの膜に濃淡が現れ、写真として鑑賞することができるようになります。

支持体に、黒いアルミプレートを使用した場合はティンタイプと呼ばれ、ガラス板を使用した場合はアンブロタイプと呼ばれます。ティンタイプは軽量で丈夫なため持ち運びに適しています。ただし、ティンタイプでは文字や柄が逆に写ってしまうという特徴があります。

一方、アンブロタイプは膜面を裏側にすることで正像にすることができますが、アンブロタイプはネガ像として写るので背後に黒い布や紙に重ねて鑑賞する必要があります。

また現像時の像の現れ方は日々の薬品の状態や天候によって大きく左右されます。絵柄の中(主にフチ部分)に化学反応の痕跡として流動的な模様(シミ​ヤムラ)が浮かび上がることもあり、これが湿板写真の特徴でもあります。このように湿板写真は、一つ一つ違った表情を見せるため2つとして同じ写真は存在しません。


カップルでティンタイプ

ティンタイプ

家族写真のアンブロタイプ

アンブロタイプ

撮影〜仕上げまでの流れ(アンブロタイプ)

① ガラス板を完璧に磨きます。

② コロジオン溶液をガラス板に注ぎ、半乾きにします。

③ 半乾きのガラス板を硝酸銀溶液に3分ほど浸します。溶液中の銀イオンがコロジオンと反応して銀ハロゲンを形成、ガラス板が感光性を帯びます。

④ ガラス板を大型カメラに装填し撮影(露光)します。

⑤ガラス板をカメラから取り出し、すぐに暗室で現像→イメージを定着します。

⑥ 水洗して乾燥させます。銀の変色を防止するためにニスでコーティングします。

​更に詳しく知りたい方​→

コロジオンと色

湿板写真においてフィルムの役割を果たすコロジオンのスペクトル感度は、人間の目の見える範囲とは異なります。コロジオンは紫外線まで感度がありますが、青と緑の中間あたりで感度が低下し始めます。そのため、黄色、オレンジ、赤の色は暗く写ります。

スペクトルとコロジオンの色再現

From Quinn Jacobson’s book CHEMICAL PICTURES

ートレート撮影において、薄い青の服は白く写り、赤やオレンジの服はほぼ黒く写ることがあります。(赤い口紅は黒く写るため注意が必要です)。さまざまな色や柄は、コロジオンの特性によって印象的な写り方をします。

 

また、コロジオンと​一般的な白黒フィルム(パンクロマティックフィルム)の色の捉え方は大きく異なります。白黒フィルムは可視光の全色が微妙に異なるグレーに変換されます。一方、コロジオンの色の変換では、中間のグレーが少なく、コントラストが強くなる特徴があります。

このコロジオンの特性が湿板写真に独特でレトロな味わいを与えていると言えます。

コロジオンの色再現

白黒フィルム

(パンクロマティック)

民族衣装のモノクロ写真
湿板写真の色再現

カラーフィルム

民族衣装のカラー写真
コロジオンの色再現

コロジオン

湿板写真で民族衣装を撮影
アンカー 1

湿板写真の原理(アンブロタイプ、ティンタイプ)

塩化コロジオンの塗布

コロジオンとは、ニトロセルロースとジエチルエーテルの混合物であり、粘りけのある液体であり傷口に塗ると耐水性の皮膜を作るため水絆創膏として知られています。一方塩化コロジオンというのは、コロジオンに臭化カドミウム、沃化カリウムを加え、更にエーテルを加えた溶液です。

湿板写真では、この塩化コロジオンをプレート(ガラス板やアルミプレート)に塗布することから始まります。また塩化コロジオン自体は感光性を持ちませんが、次の工程で感光性のある塩化銀が形成されます。

※上記以外のハロゲン化合物を用いるコロジオンレシピもあり、調子の現れ方が微妙に異なります。

 

銀浴(プレートの感光化)

塩化コロジオンを塗布したガラス板を硝酸銀の溶液に浸すことを銀浴といいます。銀浴時には塩化物イオンと硝酸銀の間で以下のような置換反応が起こり、塩化銀(ハロゲン銀)が生成されます。

-硝酸銀 + 臭化カドミウム → 臭化銀 + 硝酸カドミウム

-硝酸銀 + 沃化カリウム → 沃化銀 + 硝酸カリウム

※臭化物は色調範囲を広げ、沃化物はコントラストを高める役目を果たします。

 

これらの塩化銀(臭化銀、沃化銀)が感光性を持つ物質となります(副産物である硝酸カドミウムと硝酸カリウムは硝酸銀溶液に溜まり続けると、やがて画像形成に悪影響を及ぼすので定期的に除去する必要があります)。

置換反応は約2~4分で完了します。これにより、プレート上に塩化銀を含んだ感光層が形成されます。

 

撮影

撮影(露光)はカメラで行われます。

プレートをカメラにセットし、光を当てると、光子がハロゲン化銀を銀の原子に還元します。これは主に光の当たった部分で起こります。この反応によって、露光された一部分に銀の塊が形成され潜像が作られます。ただし潜像は目には見えないので、銀粒子を増やすために現像をする必要があります。

なおヨウ化カリウムベースの塩化コロジオンは調合後1ヶ月は感度がISO1.5くらいありますが、2ヶ月経つとISOが1を切るくらいに落ちてしまいます。

 

現像

現像液(還元剤)は主に硫酸鉄(II)、酢酸、アルコールが主成分で、プレート上の化合物に電子を与える役割を果たします(この場合電子を受け取るのは銀イオンとなります)。すでに撮影時に金属銀になった塊と残りの銀イオンが、現像液に接触することで多くの反応がおこり、より多くの金属銀が生成され、可視化されるようになります。

また現像液の量が少ないほど銀の反応は濃縮され、ハイライトが明るいコントラストのある画像が得られます。

 

定着

現像後、定着液を使用して未露光のハロゲン銀(撮影時に陰になっていた部分)の塩化銀を溶解します(定着液がハロゲン銀を水に溶けやすくします)。これにより、露光された銀の微粒子だけがガラス板上に定着し、画像が形成されます。一般的に定着にはハイポ(チオ硫酸ナトリウム溶液)を使いますが、湿板写真が盛んだった19世紀や、今でも欧米でもシアン化カリウム(青酸カリ)を使用している写真家もいます。シアン化カリウムを定着に使うとコーヒー色(暖色系)の仕上がりとなるのと水洗時間が短くなるというメリットがあります。

 

水洗

定着後のプレート上の画像や特にエッジ付近に白っぽいシミが付着しています。これは未露光の塩化銀が現像されてしまった余剰銀なので、膜面が傷つかないようにコットンボールで取り除いていく必要があります。

水洗はハイポを使った場合は最低20分行う必要があります。シアン化カリウムを使用する場合は水洗が5分程度でよいとされます。基本的には、プレートがクリアになった時間の倍の長さを定着時間とします。

 

ニス

水洗と乾燥後、ガム・サンダラックや水性ニスなどのコーティングを行います。ニスは銀を保護し、湿板写真の美しさを長く維持する役割を果たします。

日本における湿板写真

日本に写真術が最初に到来したのは、1848年で、オランダからのダゲレオタイプが長崎で輸入されたことに始まります。ダゲレオタイプはフランス人のダゲールが完成させた技法で、銅板に銀メッキを施し、沃素の蒸気をあてた感光板 を、カメラで撮影し、水銀蒸気で現像した後 、チオ硫酸 ナトリウム(ハイポ)で 定着するという方法です。ダゲレオタイプは1939年ににフランス政府によって技術が公開され、機材や手引書なども発売されたため、欧米では公表後すぐに写真スタジオが誕生し、実用的な写真技術として普及していきました。日本でのダゲレオタイプについての記録は乏しく、現存するものとしては薩摩藩で撮影された「島津斉彬像」のみと言われています。

 

一方、湿板写真(コロディオン湿板方式)は1851年にイギリスのフレデリック・スコット・アーチャーが発明した技法で、日本には1854年頃から、長崎 、横浜 、函館という三つの開港場から輸入されました。ダゲレオタイプの割とすぐ後だったこともあり、日本における写真の幕開けは湿板写真からと言われています。

 

日本における写真の開祖は上野彦馬と下岡蓮杖と言われています。1862年、上野は長崎に、下岡は横浜に写真スタジオを開業し、多くの門下生を育成したこともあり幕末・明治期に大きな影響を残しました。 

上野に限った話をすると、上野は長崎海軍伝習所でオランダ人教授ポンペ・ファン・メーデルフォールトから湿板写真について知り、一緒に学んでいた津藩からの伝習生・堀江鍬次郎と湿板写真の実験を始めました。しかし必要な機材も揃わず写真の撮影には多くの困難を伴ないましたが、その後長崎を訪れた写真家ロシエの伝習を受けて写真の実技がみるみる上達していきました。その後オランダ商人から湿板撮影用のカメラを入手し、このカメラを携えて江戸へ赴き藩主らの写真撮影を行うようになります。その後しばらく津の藩校でオランダ語と舎密学(化学)を教え、長崎の自宅に戻り写真スタジオを開業したと言われています。

 

現代であれば、湿板写真に必要な薬品(硝酸銀やコロジオン等)は化学薬品販売業者から購入できますが、上野の時代にはそれらの薬品を自分等で製造する必要がありました。例えば、アンモニアは牛の骨、青酸カリは牛の血からつくっていたようですが、このころ日本人には、牛肉を食べる風習はなく外国人の食べ物だったため、先述の堀江鍬次郎とともに、夜に牛の解体場に忍び込み、牛の肉や骨を入手することでそれらの薬品を製造したようです。また硝酸銀はメキシコの銀貨を硝酸のなかに溶かしてつくっていたという記述もあります。

 

上野のスタジオには外国人や、長崎を訪れた多くの幕末の志士たちが訪れ写真に収まっていて、あの有名な坂本龍馬の写真もその一つです。なお明治20年代の写真代金は、キャビネ判で2円、現在の価値で4万円くらいだったようです。

 

そして1870年代後半には、近代的な感光材料である乾板が導入され始めました。撮影現場で現像する必要があり露出にも数秒間必要な湿板写真に対し、暗室を持ち運ぶ必要のなく感度の高い乾板は写真の世界を大きく変えていくことになり、湿板写真は徐々に世の中から姿を消していったのです。

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